サヤカさんは面接室にやってきて、母親に対して抱いていた想いを話していました。その語り口からは真実味のようなものが伝わってきましたし、彼女自身、そういう思いを口にすることができたことで、自分が改めて何を思っていたのかを再認識できたという充実感があることを語っていました。
ですがその一方で、サヤカさんにも私にも、よく分からないことがありました。それはセラピーを始めて間もなくしてから、彼女が遅刻をしたりセラピーを休んだりするようになったことでした。その理由は、悪天候で電車が遅れてしまった、仕事が忙しくて休日も仕事をしなければならなくなった、うっかり寝坊をしてしまった、など様々でした。
セラピーの決して安くない料金は、カウンセラーがその人のために時間を確保していることの対価として発生しています。旅館のチェックインが遅れて部屋を使う時間が短くなっても料金が変わらないように、有料の貸会議室を予約したまま使わなくてもお金が発生するように、彼女が遅刻したりキャンセルしたりしても、彼女は定額の料金を支払わなければなりません。ですから、損得勘定からすれば彼女は損をすることになっていますし、セラピーの時間を十分に使えていないという意味では、遅刻やキャンセルが頻繁に続くことは彼女の側にデメリットがあると言えそうです。
サヤカさんはそのことを重々理解していました。だから彼女はいつも焦ってやって来ましたし、私に対して申し訳ないと言っていました。それでも、彼女はいつもやむを得ない事情で、遅刻やキャンセルをしてしまうのでした。私は約束の時間通りに彼女と会えないことを寂しく感じました。「時間通りに来られない」ことを話し合うときは決まって、サヤカさんはとても申し訳なさそうな様子を見せていましたから、遅刻やキャンセルを殊更に話題にすることや「気をつけましょう」と伝えることは、サヤカさんに気まずい思いをさせるだけで、私にはまったく意味のないことのように思えました。
セラピーを開始してから3か月ほどが経過したある日のことでした。仕事の都合で15分ほど遅刻してきたサヤカさんは、息を切らして申し訳なさそうに私に謝って着席したあと、大学時代の出来事を思い出して話していました。
当時、彼女は学園祭の実行委員として忙しく活動をしていて、その活動が彼女に充実感を与えていました。彼女の大学の学園祭は毎年とても来場者が多い人気のイベントでしたから、実行委員の数も、その仕事の量も、スタッフ同士の横のつながりも、全てがとても濃密だったそうです。「あの頃のように、やりがいを持って何かを頑張れたらいいのに」という話の流れから、彼女は大学3年生の年に、ある男性と一緒にチャリティー企画を取りまとめていたことを語りました。同じ学年のその男性は熱心に仕事に取りくみ、かつ彼女への気遣いをしてくれる人物で、彼と一緒に仕事ができたことを彼女は楽しんでいました。その準備をしているとき、「学園祭が終わったら飲みにでも行きたいねー」と何気ない調子で言われ、彼女も「そうだねー」と何気なく返答していたと彼女は言いました。それから、学園祭が終わって、実行委員全員で打ち上げをして、大学生活最後の仕事を終えたあとの達成感と一抹の悲しさについて彼女は言及していきました。
私の脳裏には、サヤカさんがその男性と親しく談笑している様子が鮮やかに浮かんでいました。彼女の語り口と話のディテールからは、その男性と彼女の間にロマンティックな関係性に発展する雰囲気があったのではないかと私には想像されました。その男性との関係の顛末に、自然と私の注意は引きつけられました。
「その人とは飲みに行ったんですか?」
「飲みましたよ、打ち上げで一緒に」
「いや、そうじゃなくて。誘われてたんですよね。飲みに行かないかって」
「え、いや、『飲みに』とは言われましたけど、それはふたりでっていう意味かどうかわからないじゃないですか」
サヤカさんの返答に私は驚きました。そして、彼女のその返答には含みがあるように感じて、私は更に踏み込んで尋ねました。
「それは本気で言ってますか?その時、あなたはどう受け取ったんです?」
彼女は眉をひそめた不快そうな顔つきをして、少し口ごもりました。
しばらく黙って、彼女は言いました。
「そう言われて私、、、ドキドキしました。それで、とても怖かった。彼はただ単に打ち上げのことを言っているだけかもしれないのに、自分だけが勘違いして舞い上がってしまうのは絶対に嫌だった。それに、もしふたりで飲みに行くという誘いだったとしても、本当に行ってしまったらどうなるか分からないし。男性は『酔わせたらこっちのもの』みたいなことを言うじゃないですか」
この発言から、彼女は自分の中に沸き起こってきたドキドキした感覚を見て見ぬふりするかように、そのドキドキを自分のこころから遠ざけていたのだろうと私は理解しました。彼女にとってそれだけ、ドキドキの感覚は不快なものとして感じられていたのだろうと想像します。そしてこの発言は、なぜ彼女が遅刻やキャンセルを繰り返すことになっているのかについても、私に説明してくれているように感じました。この考えを伝えることは彼女を更に不快にさせるかもしれないという躊躇いもありましたが、彼女が遅刻やキャンセルを通して何かを私にコミュニケートしているのだとすれば、そのコミュニケーションには応えた方が良いと思いました。私は思い切って自分が考えたことを伝えてみることにしました。
「このところ遅刻やキャンセルが続いているのを話題にしたことがありましたよね。今になって、私にはひとつ思うところがあります。あなたのこころの一部は私と長時間、ふたりきりで、繰り返し会うことに対してドキドキしないように、私から距離を取らなければならないと感じているのではないかと思います。でも一方で、あなたは私から関心を持ち続けてもらいたいとも思っていて、そのあなたは私があなたに会えなくて『寂しい』と思ってくれているかどうかを気にしていると思います」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか!」私が言い終わらないうちに、彼女は私の発言を一蹴しました。彼女が強い口調で否定するので、私は自分が恥ずかしくなって、自分のこころが少し傷ついているのを感じました。
サヤカさんがこんなに声を荒げることは初めてのことでした。面接室には緊迫した雰囲気が充満して、その雰囲気のなか、彼女は終了時間まで黙っていました。そして時間がきたら無言で料金を支払い、「ありがとうございました」とぶっきらぼうに言って、足早に相談室を後にしました。
前回のお話
次回のお話