サヤカさんが声を荒げた翌回、彼女は初めて連絡をしないでセラピーを休みました。
私はその日、彼女がやってくるかどうかを気にしながら前回のやり取りを思い出し、自分がとても的外れなことを言ってしまったのではないかと心配になりました。彼女の怒り方はまるで、カウンセラーが彼女のこころの中にあるはずのない”やましい”ものを不当に見出したことに怒っているかのようでした。もしそうだとすれば、きちんと謝りたい気持ちになりました。
しかし、どうしても頭のなかで引っ掛かる考えもありました。もし仮に自分が早とちりをしてしまったのだとして、果たしてそんなに怒ることなのだろうか、と。他の顧客との間では、「今のところ、そんな風に感じたことはないです」とか「私はそうは思いません」とか、そんな風に返答されることもたくさん経験してきました。そういうときは「自分の理解が間違っていたのだ」と思って、相手の力を借りながら別の理解の仕方を探せばよかったのです。そうした返答に比べると、サヤカさんの声の荒げ方やはり独特です。自分の理解が間違っていたとしても、彼女が声を荒げるほどに動揺させてしまった理由については話し合っておかないと、私は彼女をいつまでも理解できないままだと思いました。
その次の回、サヤカさんは時間通りにやってきました。彼女は「先週はすみませんでした」と気まずそうに謝罪の言葉を述べたあと、前回のことをそれ以上は話そうとしませんでした。
彼女はソファに腰かけたあと、この最近の仕事の状況について話していきました。新しく担当することになったプロジェクトの難しさや、上司への不満、自分がしている努力について彼女の話は移っていきました。その話がどれだけ重要な話だったのかはわかりませんが、断片的な情報を繋ぎ合わせたように聞こえて、この話題のどこに彼女の問題意識があるのか分かりませんでした。私はあまりその話題について興味深く聴くことも、考えを巡らせることもできませんでした。彼女と自分との間で起こった重大な出来事を見て見ぬふりしているような心地がしました。
「お話の腰を折ってしまうようですみません。前々回、あなたは私の発言に対してとても怒っておられるように見えたのですが、私たちはその話をしなくても良いのでしょうか」
彼女は話を止めて、訝しげに私を見て言いました。
「しなくて良いですよ。そのことなら、もう気にしていませんから。強い言い方をしてしまってすみませんでした」
早口で、少し棘のある言い方のように感じられました。私は食い下がります。
「あなたが気にしていなければ良い、という話ではないはずです。私は自分の何があなたを不快にさせたのかを知りたいと思います。それはあなたと協力してセラピーを前に進めていくためには大事なことのように思います」
「私は話したくないです。それに、知ってもらいたいとも思いません」
面接室のなかは再び、緊迫感に包まれてしまいました。
私はどうすればいいかと思いました。このままではただの押し問答になってしまうか、彼女が嫌がることを無理やりさせる嫌な人になってしまいそうです。
「私は今この瞬間も、あなたを不快にさせたようですね」
私はそれだけ伝えて、黙っていることにしました。実際、今これ以上どんな言葉をかけても、頑なな彼女の前では拒絶されてしまうように感じました。私は効果的な言葉かけを思いつけずにいました。彼女は何も言いませんでした。
10分、15分ほど時間が経っていたでしょうか。彼女はポツリとつぶやきました。
「嫌なんですよ。自分がカウンセラーにこころを動かしているかもしれないって思うの」
私は尋ねました。
「どうしてですか?」
「だって、非常識じゃないですか。あと絶対にそんなことにはなりたくないし、ならないですけど、もし私がカウンセラーを好きになったら、もうそのカウンセリングは続けられなくなるじゃないですか」
「私はそう思っていないけど、あなたはどうして続けられなくなると想像されているんですか」
「えっ?だって、そんな客、迷惑じゃないですか」
「もしあなたが私に”ドキドキ”したら、私があなたを嫌がると思っていたんですか」
「絶対そうだと思います。仮にそうでなくても、そういう自分は嫌なんです」
そんなやり取りをして、この日の面接は終わりました。
翌回、彼女は時間通りにやってきて、実はセラピーを始める前にカウンセリングの本やインターネットページを読んで、「恋愛転移」という言葉を目にしていたことを話しました。それはとても「女々しい」ものだと思って、自分は絶対にそうならないようにしようと思っていたと彼女は語りました。
彼女の遅刻やキャンセルは減っていきました。その代わり、自分がもし誰かを好きになってしまったら、どれだけ自分が面倒臭くて、依存的で、女々しくて、幼稚な人間になってしまうか、それらを想像するだけでとても恐いという話が語られるようになっていきました。
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